初めて語る15年前のあの日。

Cherry-Jam-Club2010-01-17

1995.1.17

あれから、、、

15年の月日が流れた。
あの日,私はいつものように校了を何本か戻して,銀座の編集部からシモキタのアパートに深夜帰宅。
フレックス出勤で、低血圧の宵っ張りのため、いつも遅くまでベッドから這い上がれないのに
あの日は珍しく7時前に自然に目が覚めた。

何気なくつけたテレビのワイドショーの画面に、茫然自失した。
阪神高速が,,倒れてる???
え?神戸で大地震

「おかあさん?おとうさん?」

ああああああ。

一瞬にして全身の血が凍り付いた。

震えながら、関西(甲子園)に住む実家に電話をする。

何度かの呼び出し音の後、

電話が通じた!!

「明け方、爆発したような揺れがあって、何が何やらわからへん。家のなかめっちゃくちゃやけど、
とりあえず、二人とも無事やし,ちいちゃん(妹)も大丈夫やから。」

電話の声は、思ったより平常に聞こえて一安心。けれど、うちの親ときたら、
骨折して入院しても、電話してこないような親である。

けれど、それは、被災地に情報が入ってないからゆえの、(まさかあそこまで被害が大きいとは思わなかった)
初期段階に過ぎなかった。

小田原の弟に、両親と妹の安否を伝えて、ニュースを見ながらとりあえず,出社。

けれど、その日から、

三日間、電話は実家に通じることはなかった。


次第に明らかになる、甚大な被害状況と加熱する報道。


ライフラインがとまり、余震のニュースに、次ぎなる大地震の予言までが、飛び出し、
妹と母は、実家の倒壊が怖くて、真冬の数週間を車で寝泊まりした。(父は、家を捨てるぐらいなら、と、けして自宅から出なかった)

当時,部下を10名かかえて、週刊誌を切り盛りしていた副編集長だった私は、なかなか実家に帰ることもできず、毎晩、不眠に襲われていた。


昨日、神戸新聞のドラマをやっていて、
スワンでライブだったので、今日になって録画を観ていたら、
いろいろ、思い出して来て,半分でギブアップ。
嵐の翔君が出てるのが(ファンなだけに),ビミョーにツライ。

続きはまた,もう少ししてから,観よう。



神戸はずっと大好きな街だ。

結婚できなかったら、Uターンして、一人でここで住みたいと,公言していた街だ。

震災で、一度死んだ亡霊のような姿も、阪神電車が復旧してから母と泣きながら
三ノ宮の町を歩いたっけ。(母は結婚前に神戸の貿易会社で働いていた)



妹は、婚約者の倒壊した家から、彼氏の弟を瓦礫の下から引っ張り出した。(婚約者の彼氏は1階の両親が圧死していて
パニックで何もできなかったらしい)。
戦争も飢えもしらなかった彼女は,同じ時代に同じ場所で育って来たのに、あの日を境に地獄を体験した。


あれから 15年。


東京で編集者だった私は、

今のダンナと巡り会い

結婚して、

香港に住んで

子供を産んで,ママになって

新潟にお嫁にきて、

ジャズにであって

沢山の仲間にであって。


今の私がいる。


本当なら、そうやって、命のバトンをつなぐはずだった、

亡くなられた大勢の貴い命を前に。


私は、自分の人生の最後の日が来るまで


毎日を、


生きて行こうと思います。